バスに乗り込み出発を待っていると、係員が荷物の分の運賃が100元だと言ってきた。マジの係員らしいのと、首尾良くチケットが取れ、バスに乗れたことで気が緩んでいて、値切りもせず支払ってしまったが、これは全く支払う必要のない金であった。なぜならギリギリに乗車してきた欧米人がおなじみの罵声と共に完全拒否して問題なく出発できたからだ。
昆明から元陽までは7時間の長丁場だったが、特に荒れた道でもなく、退屈なのを除けば、景色や車内テレビで上映されていたジャッキー・チェン&サモハン・キン・ポー主演の監獄映画などを観ながらの快適な旅路となった。
夕方到着した元陽は晴れ。思っていたより暑く、ゴアテックのジャケットでは歩くと汗ばんでしまうほどだった。バスの運転手が指した方へ、とりあえず宿を確保しようと思い歩いていると、三輪バイクのおばちゃんが声をかけてきて、今から撮影ポイントへ案内するという。
どうしようかと思ったが、まぁ疲れもたいしてないし、ノッとこうと思い、ここは若干値切りつつ夕暮れの棚田を目指してさらに高台へと向かった。
3ヶ所ほどをまわって数枚の写真を撮り、おばちゃんの案内で安いホテルに部屋をかりた。明日朝もおばちゃんが迎えに来てツアーをすると言うので、あたふたしながらも値切って、結局160元で5ヶ所の撮影ポイントのツアーを朝6:00からする事にした。宿はバス駅の裏のホテルだが、何となく部屋全体が湿っていて、カビ臭かった。多少値切って一晩55元。こんなもんかな。
翌朝、真っ暗なホテルの前にスタンバっていたおばちゃん三輪タクシーに乗りツアー再開。各撮影場所には既に数十名の写真愛好家たちが立派な三脚に高価な一眼レフをのせてシャッターチャンスを待っていた。
日本人の数名がチェキやポラロイドで地元の少数民族の少年少女達を撮って、写真を渡すとかなりウケていた。さすが手懐けるポイントを知った連中だ。しまいには民芸品や朝食、絵はがきを売りこむはずの彼らが一元を差し出して、撮ってくれと頼んでいた(さすがに受け取らなかったみたいだが)。プリクラが流行っていた頃の女子高生を思わせた。
「そんな民芸品や朝飯や、ましてや絵はがきなんて誰も買わないんだから、それより民族衣装を着て写真を撮らせて金を取れ」っと教えてやりたかったがヤメといた。どうすれば儲かるかは、いづれ気づくだろうし、知っててやらないだけかもしれない。ホテルでは、従業員が受付のカウンターでグーグルで検索した元陽の傑作写真を何枚も見せてくれた。情報化の波はこの辺境の地にも既におしよせているのだ。かつての秘境は私たちが経験した何倍ものスピードで近代化しつつある。町にはヤマハやホンダのスクーターが走り、ランクルやパジェロが舗装工事中の道を土煙を上げて過ぎていった。
田舎は都会の人の為の癒しのオアシスなのではない。その土地はそこに暮らす人々が血と汗を流し、時には命すらなげうって築き上げてきた生活の基盤だ。限られた土地を有効に使おうとした先人の知恵が、観光資源としての価値を見いだされるとは、夢にも思わなかっただろう。今、観光地として変貌する町や生活を人々はどう思うのだろう?
そんな先進国から来た土の香りも忘れてしまった観光客の心配など鼻で笑って、元陽はきっとこれからも変わっていくのだろう。新しい便利で快適な暮らしを誰もが欲している。元陽の人々も。我々の勝手な都合で、それを制限しようなんてのは傲慢だ。
でも過剰な近代化は観光資源としての価値を損ねるというのも事実だ。いつまでも元陽が持つ魅力が失なわれずにいて欲しいと思う。
そのためには国家主導の開発を指を加えて眺めていてはいけない。中国という巨大国家において、それは難しいだろうけど、「知」を共有する術は既にある。国家というピラミッド型の組織ではなく、地域が個々につながる横の情報網を通じ、互いの良さを再発見しつつ、発展が伝統を失わせない開発が重要だなと感じた。
勿論それは私と私の生まれ育った町にも言えるのだ。
元陽で食べたご飯は、パラパラとした食感だが、決してドライなのではなく、おかずの汁と絡み絶妙なおいしさだった。