マンダレーの市街の西側を南北に流れるエーヤワディー(イラワジ)川の船着き場から、定刻通りフェリーが出港したのは、日が明け始めた5:30頃であった。ガイドブックによると12時間の船旅は、しばらくの間は、風も心地よく、朝焼けの太陽も薄くかかった雲に遮られ、まだ柔らかな日差しを川面におくっており、心安らぐ平穏に満ちていた。
船はさすがに大きいものではなく、船内はたくさんのミャンマー人と、彼らが持ち込んだ物資であふれかえっていた。外国人は、私の他に5人の中国人の青年が、やはりカメラやビデオを携え、物珍しい風景を収めることに腐心していた。噂によれば、外国人用のスペースは船内にて仕切られ、すし詰めの現地民とあからさまに区別されるとのことだったが、私は船内の食堂の目の前に茣蓙を敷いた家族の隣に、自分の寝袋分だけの場所を確保してもらい、ミャンマー人と「川の字」になって寝そべることを許された。そうして私はお隣の家族から食べ物をもらったり、食堂で食事をしたり、コーヒーを飲んだりして、何となく午前中を過ごした。
異変に気づいたのは、午後も2時を回った頃で、フェリーへなだれ込んできた物売りで昼食をすませ、食堂にてお茶を飲んで一服しているところだった。当初、近くの村へ向かう人のために、停泊しているものだとばかり思っており、実際に何度もボートがやって来ては、たくさんの人がフェリーから下りていくのを見送っていたが、それにしては既に動かなくなってから2時間も経過しようとしていた。
そのうちに寄ってきたボートの何隻かが、フェリーを押したり引いたりし始めるに至って、これはどうやら座礁してしまったのだと思った。フェリーは下船のために停泊したのではなく、座礁したがために、先を急ぐ人々が最寄りの村でバスを待とうと、船を下りていったのだ。
それからは通りすがりの船に何度か助けを請うものの、にっちもさっちも行かず、なかには大型の貨物船もあったのだが、やはりびくともしない。しまいには船員が船から下りて(なんと船員の腰から下までしか深さがないのだ!)、工夫を懲らすも失敗に終わり、いよいよ船を下りる人も後を絶たず、気づけば足の踏み場にも困るほどだった船内は閑散としていた。
時は刻一刻と過ぎ、あたりは早くも夕闇に包まれようとしていた。既に座礁から6時間が経過している。こうなると気になってくるのが到着時間だ。当初の予定に座礁タイムを加えると、到着は深夜、ないしは早朝となる。まともな街灯など無い村で、暗闇のなかを野犬におびえながらゲストハウスを探し回るのは御免被りたい。こうなったら朝までこの場を動かず、夜が明けてからバガンを目指したいところだ。
しかし願いもむなしく、フェリーは日がすっかり落ちてから遂に難を逃れ、自由を得、また身軽にもなった船は快走を始めた。まずいなぁ。もう一回、座礁しないかな、っと思いつつも、なんとなくうとうとと眠りに落ちてしまい、目が覚めると、再び船はどこかでとまっていた。もちろん座礁したわけではなく、夜間航行をしてまで、最短で目的地を目指すはずもなく、翌日に到着を延ばしたからであった。
船はまた明け方より動き始めたが、結局、バガン最寄りのニャンウー村へ到着したのは、午前11:30分だった。30時間の船旅は、ラオスのメコン川下りを越えて最長のものとなってしまった。メコン下りの場合は、途中下船して一泊するからだ。距離は半分以下なのだが。しかしメコンの時に比べて、座礁後は船内に空間の余裕ができ、手足を広げてくつろげたため、疲労は少なかった。またこの旅では初めて寝袋が大活躍した。持っといて良かったよ。
船はさすがに大きいものではなく、船内はたくさんのミャンマー人と、彼らが持ち込んだ物資であふれかえっていた。外国人は、私の他に5人の中国人の青年が、やはりカメラやビデオを携え、物珍しい風景を収めることに腐心していた。噂によれば、外国人用のスペースは船内にて仕切られ、すし詰めの現地民とあからさまに区別されるとのことだったが、私は船内の食堂の目の前に茣蓙を敷いた家族の隣に、自分の寝袋分だけの場所を確保してもらい、ミャンマー人と「川の字」になって寝そべることを許された。そうして私はお隣の家族から食べ物をもらったり、食堂で食事をしたり、コーヒーを飲んだりして、何となく午前中を過ごした。
異変に気づいたのは、午後も2時を回った頃で、フェリーへなだれ込んできた物売りで昼食をすませ、食堂にてお茶を飲んで一服しているところだった。当初、近くの村へ向かう人のために、停泊しているものだとばかり思っており、実際に何度もボートがやって来ては、たくさんの人がフェリーから下りていくのを見送っていたが、それにしては既に動かなくなってから2時間も経過しようとしていた。
そのうちに寄ってきたボートの何隻かが、フェリーを押したり引いたりし始めるに至って、これはどうやら座礁してしまったのだと思った。フェリーは下船のために停泊したのではなく、座礁したがために、先を急ぐ人々が最寄りの村でバスを待とうと、船を下りていったのだ。
それからは通りすがりの船に何度か助けを請うものの、にっちもさっちも行かず、なかには大型の貨物船もあったのだが、やはりびくともしない。しまいには船員が船から下りて(なんと船員の腰から下までしか深さがないのだ!)、工夫を懲らすも失敗に終わり、いよいよ船を下りる人も後を絶たず、気づけば足の踏み場にも困るほどだった船内は閑散としていた。
時は刻一刻と過ぎ、あたりは早くも夕闇に包まれようとしていた。既に座礁から6時間が経過している。こうなると気になってくるのが到着時間だ。当初の予定に座礁タイムを加えると、到着は深夜、ないしは早朝となる。まともな街灯など無い村で、暗闇のなかを野犬におびえながらゲストハウスを探し回るのは御免被りたい。こうなったら朝までこの場を動かず、夜が明けてからバガンを目指したいところだ。
しかし願いもむなしく、フェリーは日がすっかり落ちてから遂に難を逃れ、自由を得、また身軽にもなった船は快走を始めた。まずいなぁ。もう一回、座礁しないかな、っと思いつつも、なんとなくうとうとと眠りに落ちてしまい、目が覚めると、再び船はどこかでとまっていた。もちろん座礁したわけではなく、夜間航行をしてまで、最短で目的地を目指すはずもなく、翌日に到着を延ばしたからであった。
船はまた明け方より動き始めたが、結局、バガン最寄りのニャンウー村へ到着したのは、午前11:30分だった。30時間の船旅は、ラオスのメコン川下りを越えて最長のものとなってしまった。メコン下りの場合は、途中下船して一泊するからだ。距離は半分以下なのだが。しかしメコンの時に比べて、座礁後は船内に空間の余裕ができ、手足を広げてくつろげたため、疲労は少なかった。またこの旅では初めて寝袋が大活躍した。持っといて良かったよ。