スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

5月, 2009の投稿を表示しています

ミャンマー写真

インレー湖周辺の村にある寺院 バガン行きのボートであった子供たち チャウンター・ビーチ 佐野日大と滋賀観光のバス トレッキングのゴールの寺院にいた子猫 トレッキング中

風邪

 25日夜ビールを飲んで寝ようと思ったら、寝てすぐに吐いてしまい、それから急激に熱が出て、下痢も止まらなくなってしまった。  そしてその熱がまた、ハンパないのだ。「タイが熱~い」などと、へらへらのたまっていた報いなのか。人間ってこんなに熱を発することができる生き物なのだと、驚くほどに発熱した。一瞬、マラリヤか、はたまた噂のインフルエンザかっと不安に陥ったが、医者にいったら、普通に「風邪です」と言われた。  バンコクのたぶん一番大きい病院なんだろうと思うのだけど、その名も「バンコク・ホスピタル」には日本人専用コーナーまである超高級病院で、フロアはまるで一流ホテルのようだった。もちろん治療費もそれなりにしたのだが。  熱は宿でもらった謎の錠剤と、医者からもらった解熱剤で昨日にはだいぶ落ち着き、今日には下痢も収束して、食欲も復活した。まぁしばらく安静にして、ころあいを見てまた行動しよう。

三度バンコク

 今朝、10:45の飛行機で三度バンコクへと戻ってきた。帰路に際してヤンゴンには二日滞在したが、二日間ともひどい雨で、交差点は冠水し、下水はあふれかえる有様で、雨季のミャンマーの一端を思いがけずあじわさせられた。  バンコクは最近は好天が続いているらしいとのことだ。めちゃくちゃ熱い。暑いのではない、「熱い」。うんざりする。インドはもっと熱いのだろう(いろんな意味で)と思うと、いまからくたびれてしまうよ。  ミャンマーでは、なぜかこのブログがアクセス拒否されてしまい、投稿はメールを送ればできましたが、コメントの返信ができませんでした。コメントありがとうございます。

インレー湖

バガンからバスに揺られること12時間、ミャンマーの中央に位置するインレー湖へやってきた。高原地帯にあるこの湖周辺は、比較的涼しく過ごしやすいと聞いたので、のんびりするには良いかと思い、ミャンマー最後の訪問地とした。バングラディッシュ国境に近いシットウェーと言う町も気になったのだが、「涼しい」という甘い誘惑には勝てなかったのだ。  到着は夕刻になったのだが、バスがひと山超える度に、確かに風が心地よさを増し、日差しも柔らかく感じられるようになった。  ちなみにミャンマーのバスは日本の中古のものが多く、20年・30年以上前の年代物ばかりだ。しかも道路はまともに舗装されておらず、下手に眠ろうものなら椅子から転げ落ちそうなほど揺れるハードな旅路を提供してくれる。もちろん他の東南アジアの国々も大概似たり寄ったりだが、おそらくミャンマーの交通網はなかでも最悪だろう。ラオス以下である。  だがそのおかげでバス酔いせずに済んでいるという気もする。なにせスピードが出せないものだから、三半規管に異常をきたすほど、目が回るような場面はないのだ。  もちろん時間はかかる。走っているのが奇跡のようなバスが、あぜ道のような道路を200kmも300kmも走るのだ。エアコンの利いた車内でリクライニング・シートに座ってくつろげれば、疲労も少ないのだろうが、そんなわけはなく、クッションはあるものの、1mmたりとも動かない背もたれに、シートの幅は戦後間もない頃の小柄な日本人サイズに設計されているためか、明らかに私は収まることが出来ない。さらに常に膝が前の椅子にぶつかっていなければならないほど、シート間の隙間もない。エアコンはなく、開け放たれた窓からは土煙と真っ黒な排ガスが流れ込んでくるのだ。そんなバスに10時間も乗っていると、それだけで寿命が縮むのじゃないかと思う。  到着した当日とその翌日は、何をするでもなく、ぼんやりと過ごしたが、三日目・四日目はトレッキングにボート・ツアーと、最近では珍しくアクティブに行動した。やるときゃ、やるよ。  トレッキングは雨宿りに寄ったレストランの主人に誘われ、たまには良いかと思いついて行ってみた。それはトレッキングというほどのものではなく、5時間程度の行程ではあったが、いくつかの村や、洞窟のなかの仏像、山腹の寺院などを訪ねて歩くのは、なかなか楽しかった。3ヶ月ぶりに靴を履

バガン

 自転車で仏塔まで先導してくれたおじさんは、おそらく毎日そこで絵を売っているのだろう。内部の仏像の前には、おじさんのものと思われる茣蓙が敷いてあり、私が帰る間際には、何枚かの絵をそこで広げていた。  おじさんに勧められるままに、仏塔の階段を上り屋上にでると、見渡す限りの絶景に、息を飲まずにはいられなかった。果てしなく続く林の茂みの間から、新旧、大小、数え切れないほどの仏塔や寺院がその姿を覗かせていた。それは古代ビルマ王朝の繁栄を思わせるのに十分すぎるほどの景色であり、また今も綿々と続くミャンマーの人々の信仰心を裏付けるものでもあるように思った。  少しの間、そこでのんびりと景色を堪能したかったのだが、おじさんが余りにしつこく解説を繰り返し、私の年齢だ、出身だ、何日滞在するのだ、と、知ってる限りの英語での質問責めにうんざりしてしまい、早々にその場を後にした。階段を下りると、早速、おじさんが商品の絵を広げ、売り込みを始めたので、「No thank you」とだけ言って、仏塔を出て自転車にまたがった。  その日はバガンに点在する仏教遺跡を巡るつもりで、早朝、宿で自転車を借り、滞在する村からオールド・バガンと呼ばれる遺跡が集中する地域へと走っていた。おじさんの仏塔は、村とオールド・バガンの間ぐらいにあるガイドブックにも載ってなさそうな小さな仏塔だが、小高い場所にあり、バガンの西端から景色を一望するには、良い場所であった。  さらに西へ進むと瓦解した城壁の門が残されており、その付近に有名な仏塔や寺院が集中している。個々の解説は省くが、ほとんどの遺跡が11世紀から13世紀にわたって建造されたものであり、アンコールワット同様、重要な仏教遺跡である。アンコールワットと違うのは、お国柄か(笑)、世界遺産には登録されておらず、今も現役で人々の信仰の中心でもあるため、コンクリでガンガン修復されていたりする点だ。  しかし、まぁ諸行無常が仏教の根本思想なのだ。不変のモノなど無いのだから。カタチが変わっても、今此処に生きづく人々の御仏を賜う心根こそ、彼の地のにおける最も重要な文化財なのだろう。

座礁

マンダレーの市街の西側を南北に流れるエーヤワディー(イラワジ)川の船着き場から、定刻通りフェリーが出港したのは、日が明け始めた5:30頃であった。ガイドブックによると12時間の船旅は、しばらくの間は、風も心地よく、朝焼けの太陽も薄くかかった雲に遮られ、まだ柔らかな日差しを川面におくっており、心安らぐ平穏に満ちていた。  船はさすがに大きいものではなく、船内はたくさんのミャンマー人と、彼らが持ち込んだ物資であふれかえっていた。外国人は、私の他に5人の中国人の青年が、やはりカメラやビデオを携え、物珍しい風景を収めることに腐心していた。噂によれば、外国人用のスペースは船内にて仕切られ、すし詰めの現地民とあからさまに区別されるとのことだったが、私は船内の食堂の目の前に茣蓙を敷いた家族の隣に、自分の寝袋分だけの場所を確保してもらい、ミャンマー人と「川の字」になって寝そべることを許された。そうして私はお隣の家族から食べ物をもらったり、食堂で食事をしたり、コーヒーを飲んだりして、何となく午前中を過ごした。  異変に気づいたのは、午後も2時を回った頃で、フェリーへなだれ込んできた物売りで昼食をすませ、食堂にてお茶を飲んで一服しているところだった。当初、近くの村へ向かう人のために、停泊しているものだとばかり思っており、実際に何度もボートがやって来ては、たくさんの人がフェリーから下りていくのを見送っていたが、それにしては既に動かなくなってから2時間も経過しようとしていた。  そのうちに寄ってきたボートの何隻かが、フェリーを押したり引いたりし始めるに至って、これはどうやら座礁してしまったのだと思った。フェリーは下船のために停泊したのではなく、座礁したがために、先を急ぐ人々が最寄りの村でバスを待とうと、船を下りていったのだ。  それからは通りすがりの船に何度か助けを請うものの、にっちもさっちも行かず、なかには大型の貨物船もあったのだが、やはりびくともしない。しまいには船員が船から下りて(なんと船員の腰から下までしか深さがないのだ!)、工夫を懲らすも失敗に終わり、いよいよ船を下りる人も後を絶たず、気づけば足の踏み場にも困るほどだった船内は閑散としていた。  時は刻一刻と過ぎ、あたりは早くも夕闇に包まれようとしていた。既に座礁から6時間が経過している。こうなると気になってくるのが到着時間だ。当

Nylon Cold Drink

 ナイロン・コールド・ドリンクはマンダレーの83番通りに面したアイスクリームのお店だ。変わった名前だが、アイスクリームの他にもシェイクやデザートなどもおいしいと評判で、毎日、客足の絶えないカフェである。  ミャンマーにおいても奢侈品であるアイスクリームの専門店の前には、新聞売りやバイクタクシーに混ざって、二人の乞食が慈悲をもとめていた。一人は両足が太股以下より無い(か、そのようにみえる)40代の太った女性で、もう一人は5歳ぐらいの男児であった。  男児は私が席に着いてから、すぐに私に目を付けたか、外を見やる度に目が合い、その都度、左手を差し出した。二三度、そのようなことを繰り返すものだから、ついには私は外を見るのを止めてしまった。  しばらくしてから、女の物乞いが何かを叱責するような声を聞いたので、ふと外を見ると、男児より少しは年長であろう、やはり物乞いの女児が、店の前の歩道を歩いていた。乞食は店の前の歩道より近くには入らないという約束事があるのだろう、女の声はそれを注意するものだった。すぐさま店員が駆けつけ、拳で女児の腕を突き、車道へと押し出した。女児は恨めしそうな顔で店員をにらめつけながらも、特に何も言わず立ち去った。  店にいた他の客も、周りの誰もが無関心のように見えた。だから私も無関心を装い、アイスクリームに気持ちを戻した。相も変わらず、胸の奥にいるモヤモヤした暗い淀みが、私を覆い尽くしそうになるのを、冷たく、とろけるように甘いアイスクリームの味が押しとどめた。  際限なく繰り返す飽食の末に得た無関心の味。

ミャンマー鉄道の夜

 とにかく厳しかった。列車が縦に揺れるという噂は本当だった。  ヤンゴン発マンダレー行きは、5:00発、5:30発、6:00発の三本しかなく、なぜか30分おきに発車する。午後とかせめてもう少し遅い時間がないものかと思ったが、ないらしい。理由はただひとつ。その時間に出ても、到着は深夜にいたるからだ。私が乗った5:30の列車がマンダレーに到着したのは、22:30。じつに18時間もクッションすらない木製にベンチに座っていたことになる。しかしいまだに尻が痛いのは、そのせいだけではない。  列車が走り出して、すぐに縦揺れは始まった。どういうことなのかさっぱり分からないが、もはや揺れるというよりは、縦に弾んでいるといっても差し支えないほど、列車は揺れた。もちろん常に揺れているわけではないのだが、すこし眠ろうかと思っても、うとうとした瞬間に、強烈に揺らされるので、たまった物ではない。ちなみに左右にも揺れるので、いつ脱線するかと、ひやひやしながらの行程となった(実際、脱線に見舞われた方もいるらしい)。  とりあえず私は無事、マンダレーについた。疲れた。肩が凝った所為か、頭痛もやまない。市内観光なんて気にもならず、昼過ぎまで惰眠をむさぼっていた。明日もマンダレーで過ごして、明後日は今度は船でバガンにむかう。

やられた!

 というよりか、やっちまったというべきか。  ミャンマーにはチャットという自国の通貨があるが、外国人はホテルや鉄道、飛行機などの支払いをドルですることもできる。しかしカンボジアのようにドルがどこでも使えるというわけでもなく、商店やレストランでの支払いはチャットしか通用しない。なので微妙にドルとチャットを併用しながらの旅になるのだが、両替は銀行などの公的機関でするのは望ましくない。むしろしちゃダメ。というのは国が設定しているレートは実際の市場でのレートとだいぶかけ離れているため、公用レートだと、たとえばビール一本の値段が1000円以上という、とんでもない話になってしまう。  というわけで、両替は町をうろうろしている闇商人とコッソリ交換するわけだが、結論から言うと、思いっきり90ドルほど騙し取られてしまった。  いったいどうやって、いつのまに抜かれたのかわからないが、宿で確認したら、何度数えても(泣)、90ドル分足らないのだ。  もはや言い訳はすまい。間抜けなのは私だ。彼らは生きるために、いかなる手段も辞さない。私に誰を責める権利もない。しかししかし愚痴だけは言わせてくれ。別れ際の不可解な表情は、そういうことだったか。  念のため、もう一度現場を訪れ、彼らに懇願してみたが、当然、却下された。当たり前だわな。とりあえず一応、「俺はアホだが、他の日本人はクールだぜ」っと、さっぱり意味のわからない捨て台詞を残して、立ち去った。  油断した。それだけだ。  スー・チーさんの具合が良くないらしいね。暑いし、軟禁状態も相当長いし、限界かな。万が一のことがあると、騒ぎになったりするのかしら。現地情報を気にしていかないと。ありそうなら、即脱出しよう。 http://www.afpbb.com/article/politics/2600523/4127063

チャンター

パテインをあとにして、チャンターという海沿いの村を目指した。パテインからのバスは町のすぐ近くのバス駅から発車する。  朝起きてすぐ宿の用意した、例によって簡素な朝食を胃袋に詰め込んで、すこし近所を散歩した。宿の目の前には市場があり、各店舗にはそれぞれ食料品や衣料品、雑貨などが並び、それらを買い求める人でごった返す様は、他のアジアの国々同様だ。行き交う人々にインド系の人種が増えたのが、ミャンマーに来て一番大きな違いであるように感じる。また道路を走るバスやトラック、自動車の年代が異常に古く、ほとんどが80年代か、古いものでは私よりだいぶ年上のトラックも未だ現役で活躍している。ヤンゴンでもパテインでも道路の状態は悪く、社会主義の国であることを強く感じさせる。  散歩から戻り、荷物を整理してチェックアウトすると、真っ直ぐバス駅まで歩いた。バス駅ではサイカーのドライバーが、世話を焼いてくれて、問題なく切符を買えた。バスを待っている間、ドライバーがお茶でも飲んでいろと言うので、素直に従って、駅内部の路上喫茶店で200チャットのインスタント・コーヒーを飲んでいた。  バスが来る間、話しかけてきた何人かのうちの一人にその後のルートの行き方などを聞いた。基本的に、駅周辺にいる人々はおせっかいで親切だ。そんな人々に急かされて、到着したチャンター行きのバスに乗り込んだ。  チャンターまでの道は未舗装の区間も多く、バスは縦に横に揺れながら、のんびりと田園風景のなかを走った。見渡す限りの広大な農地や湿地、または荒れ地を眺めながらのバス旅は、海外ならではだ。バスはいつしか、くねくねと曲がる急な坂道を登り始めた。あいかわらず揺れは激しいが、スピードは遅いので、心配していたバス酔いには至らなかった。  チャンターへは4時間ほどで到着した。02年度版のガイドブックには、外国人には入域料なるものが徴収されるとあったが、オフシーズンだからか、撤廃されたか、道中どこでも求められなかった。  到着したバス駅は町の中心部にあり、今回はサイカーの誘いに乗らず歩き出すと、バイクに乗った男が宿を紹介すると声をかけてきた。通常、相手にしない方が良い輩だが、フリーだと言うので、最悪、また2ドルぐらい払って追い払おうと思い、誘いにのって、バイクの後ろにまたがった。  男は当初、友達が経営するゲストハウスに連れて行くと行っ

パテイン

 ヤンゴンの宿の朝食は食パン3切れとインスタントコーヒーだけだった。2日間とも同じだったので、ずっと一緒なのだろう。今月後半から雨期にはいるのを見据えて、早めに行動しようと思い、3日目にして早々にこの国の首都とを出た。  向かった先はパテインというヤンゴンの西に位置する小さな町だ。取り立てて見所はないが、チャンターというビーチのある町の途中によった。  ヤンゴンからのバスが発車する駅は市内をはずれて大分遠くにあるため、タクシーでしか行けないとのことで、10ドルで駅まで送ってもらった。後で思ったのだが、タクシーに10ドルも払うなら、鉄道の方が安かったかも。失敗。  バスの切符は駅で思いの外、簡単に買えて、バスも30分ほどの遅れで発車し、ここまでは順調だったのだが、発車して50メートルも走らずに、どうやら故障のため停車し、そこから再発進までさらに1時間ほどかかった。  その後は問題なく走り続け、パテインには午後6時頃到着した。到着したのはバス駅ではなく、川の側で、例によって大集合してきた、ドライバーに確認すると、町の中心部の側を流れるパテイン川であることがわかった。いまいち距離感もわからないので、サイカーという自転車版サイドカーのタクシーに乗り、約2ドルでゲストハウス前まで行ってもらったら、思いっきり近くで、ふつうに歩いていける距離だった。なんだか財布の紐が緩くなりつつあるので、引き締めていこう。  しかもゲストハウスは希望した場所ではなく、第二希望ぐらいのところだったが、面倒なので金を払ってドライバーを追い払い、とりあえず宿の料金を確認すると、7ドルだと言うことで、もう少し安い宿はないものかと、第一希望を含め、町を歩いて探したが、第一希望は廃業しており、他に安宿もなさそうなので、最初の宿へ戻った。途中、おじさんが話しかけてきて、道案内をしてくれるというような雰囲気だったが、歩くのもしんどくなっていたので、適当に断ろうとしたが、結局、既に判明している第二希望の宿までの道を一緒に歩いてきてしまった。  宿の支払いはチェックイン時に請求され、ドルのお釣りはあるかと聞くと、ないと言う。ではチャットで払うというと、レートよりも高い計算で料金を提示してきたので、高いと言うと、外国人だからだと言われた。言いたいことは山ほどあるが、しょうがないので貴重(笑)な1ドル紙幣で払うと、今度

ヤンゴン

 バンコク発ヤンゴン行きの飛行機が早朝7時の出発のため、やむなく深夜、宿をチェックアウトして空港へ向かった。バンコクの宿では思わぬ再会もあり、新たな出会いもあり、短い時間であったが、非常に貴重な時を過ごせた。愉快な人ばかりで、せめてもう一日、一緒に遊びたかった。別れのたびに思うが、みんなにもう一度会いたい。旅先でも、日本でも。  ヤンゴンまでの飛行時間は非常に短く、飛んだと思ったらついてしまった。距離は近いのだ。しかし陸路での入国は厳しい制限が課され、実質不可能に近い。近年、開放路線を進めているとはいえ、まだまだその扉は、初めて感じられる重さだった。  空港は簡素だった。想像していたとおり、ラオス・ビエンチャンの空港に非常に雰囲気が似ていた。そして一歩外へ出ると、強烈な日差しと熱風に見舞われた。バンコクよりも暑い?とりあえず客の「出待ち」をしていたタクシーに乗り込み、告げられたダウンタウンまでの料金、6ドルをしぶしぶ払った。  ミャンマーでは、他の国のようにはATMにて現金の引き出しができないため、バンコクにて引き出したバーツをドルに両替し、すべて現金でのみですごさなければならない。滞在日数は24日間。多めには持ってきたつもりだが、移動費が今ひとつはっきりしないので、少し不安だ。  タクシーに連れて行ってもらった希望した宿がいまひとつだったので、少し歩いて町の中心部にあるスーレーパゴダのすぐ近くにあるゲストハウスにチェックインした。一泊6ドルと、少し高めだが、エアコンと朝食がついている。しかし一日過ごしてみてわかったのだが、ヤンゴンでは一日に何度も停電するため、そのたびにエアコンが停止し、あまり快適に部屋で過ごすことは難しいようだ。停電に伴いエアコンが止まると、ファンが動き出す。ゲストハウスの自家発電の供給先はエアコンには接続されず、ファンのみが稼動する仕組みになっているとのことだった。ちなみに通常電力においては、ファンは稼動しない。不便だ。  その日は前日空港でまったく眠れなかったので、宿で寝て過ごしてしまった。夜、腹が減ったので、とりあえず近くのめぼしいレストランに入ると、チキンカレーが1800チャットだった。ちなみに1ドル=1100チャットで両替した。正規に両替をしてくれる店が、さっぱりわからないので、結局、道端で両替を勧めてくる闇両替屋に両替してもらったが、

ミャンマーへ

明日早朝の便でミャンマーへ向かう。 昨日ビザもとれて、その足で飛行機も予約し、今は古本屋で手に入れたガイドブックを元にネットも絡めて情報収集しようかなと言ったところだ。 ガイドブックは02年のものなので、今一つ直近の情報がないのだが、とりあえずATMがないらしいので、あわててバーツをドルに両替した。ドルでの決済が可能らしいからだ。 約20日間の滞在予定なので、今、妙にいっぱい現金を持っている。こんなに財布にお金が入っていることは、まずないので、ちょっぴり不安。