プノンペン二日目。
とりあえず想像していたよりも、ずっと平穏で安心してすごしている。少なくとも首都の安全性は確保されているようだ。そして東南アジアらしい活気に、この町もあふれている。
何から書けばよいのか。
ここに来る前に思っていたイメージは、アンコール・ワットに代表される数々の世界遺産、そして貧困と犯罪、またアウシュビッツやルワンダに並ぶ20世紀最悪ともいえる大量虐殺の歴史だ。私はそれを20年ほど前に映画で知った。キリング・フィールド。現在その場所は、プノンペン観光の主要ツアーの一部として、多くのツーリストが訪れている。私もそんな物見高な人間の一人だ。
いったいこの国の人々は、観光客が「キリングフィールド」に行きたいという要望をどのように受け止めているのだろう?ヒロシマやナガサキとは訳が違う。その地はある種、カンボジアの人々にとって今なお続く悲劇の歴史そのものだ。外国人が気軽に足を向けてよい場所なのか。しかし街を行けば、バイクタクシーやトゥクトゥクのドライバーが陽気に「キリングフィールドヘ行こう」と声を掛けてくる。明日を生きねばならない人々にとって、私の悩みなどちっぽけなものなのだろうか。
朝、食事をしてツアーデスクの用意したミニバンに乗り込んだ。私の他にも数名の欧米人が同行した。30分ほど走ると町並みが途切れた先に、その場所はあった。いまだ整備の終わらないその惨劇の跡では、公園としての体裁を整える工事が続いていた。チケットを購入し、遠くからも見えた白い塔を目の前にした。中には無数の骸骨が並べられ、最下段には犠牲者の衣服が集められていた。1ドルで買った線香と花をささげた。塔の周囲にはいくつもの穴が掘られており、その一つ一つが処刑場であった。なかには女性と子供の首のない死体だけが打ち捨てられた穴もあったそうだ。いくつかの穴を見てまわり、外周を一回りしてみた。金網の外はどこまでも湿地が続いており、子供たちが観光客に1ドルの慈善を要求していた。穴のそばにはいまだにちぎれた衣服が散乱する箇所があった。大きな木の下にも色あせた衣服が集められていた。その木は犠牲者たちが吊るされた木であった。
静かだった。誰もが黙して惨劇の公園を歩き、時折、這い回るトカゲのガサガサという音が耳についた。骸骨やちぎれた衣服がなければ、この場所ではてしない虐殺が行われたとは、信じられなかっただろう。
キリングフィールドを後にして、さらにトゥール・スレーン博物館へ向かった。元々学校であったその建物は、当時、監獄として使用され、拷問と虐殺が4年間にわたって繰り広げられた。最初の建物は尋問室で、部屋には鉄の枠組みだけのベッドだけがあり、当時の様子が写真にて部屋ごとに飾られていた。写真によれば、マットのないその鉄の枠だけのベッドに人が縛られ、拷問を受けたようであった。ある部屋の写真の囚人は、人の顔の形を成していなかった。拷問の跡が見て取れた写真は、それだけであった。極限にまでやせた人が、無機質なベッドにくくりつけられていたようだった。
隣の建物は監獄で、教室であったと思われる部屋の壁には、それぞれの部屋を行き来できるように小さな穴があけられ、レンガで仕切られた独房が設けられていた。広い教室は圧迫感のある監獄に改築されていて、無念の叫び声が聞こえてくるように思われて、とても一人で建物の中に入られなかった。
囚人の写真が展示された建物には、まさしく老若男女の顔が並び、なかには子供を抱いた母親の写真もあった。拷問や処刑の様子が描かれた絵のなかには、母親から無理やり子供を奪う様子もあった。その母親と子供の運命は容易に想像できた。
博物館の外では、観光客の”出待ち”をするバイクタクシーやトゥクトゥクのドライバーに混ざって、顔の焼け爛れた男が物乞いをしていた。見るに耐えないその男の顔は、博物館でさんざん惨劇の様子を目にしてきた人間には、慈悲を請うには非常に効果的な気もしたが、残念ながら私には刺激が強すぎた。あなたを目の前にしては、数秒もたたずんでいられない。ドライバーの一人を選んで、その場所を後にした。
人の死と、如何に向き合うべきか。それは誰でもが思う人生のテーマだ。祖父母や親類の死、親しい人や両親との死別。身近な死を目の前にして、時々は生と死について思いにふける。
カンボジアでは1975年から1979年にかけて、ポル・ポトの支配の下で実に人口の三分の一が処刑されたという。キリングフィールドやトゥール・スレーンではそれぞれ判明しているだけで、2万人が処刑されたのだ。その場所に行き、何を感じたかといえば、およそ何も感じなかったというのが正直な感想だ。特にキリングフィールドでは、山積みの骸骨を目の前にしても、わきあがる感情など何もなかった。どうにも釈然としない。理解が及ばない。そう、感情を持って狂気の沙汰に向き合うには、私は歳をとりすぎてしまった。頭で考えても何も出てこないのに、心も向き合おうとしない。この旅でここに来ることだけは最初から決めていたのに、最も心に刻まれたのはトゥール・スレーンの顔の焼け爛れた物乞いの、生命感のない瞳だけであった。
まだ整理し得ない思いはある。キリングフィールドが、くだらない数字と記号で暗記されるだけの遠い国の歴史の1ページではないのは確かだ。今なお続く搾取の痕跡であり、未来への啓示であると心に刻む。