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3月, 2009の投稿を表示しています

プノンペン

プノンペン二日目。 とりあえず想像していたよりも、ずっと平穏で安心してすごしている。少なくとも首都の安全性は確保されているようだ。そして東南アジアらしい活気に、この町もあふれている。 何から書けばよいのか。 ここに来る前に思っていたイメージは、アンコール・ワットに代表される数々の世界遺産、そして貧困と犯罪、またアウシュビッツやルワンダに並ぶ20世紀最悪ともいえる大量虐殺の歴史だ。私はそれを20年ほど前に映画で知った。キリング・フィールド。現在その場所は、プノンペン観光の主要ツアーの一部として、多くのツーリストが訪れている。私もそんな物見高な人間の一人だ。 いったいこの国の人々は、観光客が「キリングフィールド」に行きたいという要望をどのように受け止めているのだろう?ヒロシマやナガサキとは訳が違う。その地はある種、カンボジアの人々にとって今なお続く悲劇の歴史そのものだ。外国人が気軽に足を向けてよい場所なのか。しかし街を行けば、バイクタクシーやトゥクトゥクのドライバーが陽気に「キリングフィールドヘ行こう」と声を掛けてくる。明日を生きねばならない人々にとって、私の悩みなどちっぽけなものなのだろうか。 朝、食事をしてツアーデスクの用意したミニバンに乗り込んだ。私の他にも数名の欧米人が同行した。30分ほど走ると町並みが途切れた先に、その場所はあった。いまだ整備の終わらないその惨劇の跡では、公園としての体裁を整える工事が続いていた。チケットを購入し、遠くからも見えた白い塔を目の前にした。中には無数の骸骨が並べられ、最下段には犠牲者の衣服が集められていた。1ドルで買った線香と花をささげた。塔の周囲にはいくつもの穴が掘られており、その一つ一つが処刑場であった。なかには女性と子供の首のない死体だけが打ち捨てられた穴もあったそうだ。いくつかの穴を見てまわり、外周を一回りしてみた。金網の外はどこまでも湿地が続いており、子供たちが観光客に1ドルの慈善を要求していた。穴のそばにはいまだにちぎれた衣服が散乱する箇所があった。大きな木の下にも色あせた衣服が集められていた。その木は犠牲者たちが吊るされた木であった。 静かだった。誰もが黙して惨劇の公園を歩き、時折、這い回るトカゲのガサガサという音が耳についた。骸骨やちぎれた衣服がなければ、この場所ではてしない虐殺が行われたとは、信じられなかっただろう

ベトナム最後の日

今日でついにベトナムともお別れだ。途中ラオスに移動したが、結局ベトナムにも最初の五日間と合わせて、20日以上滞在したことになる。 ハノイでは東南アジアらしい喧噪に少々怯みながら、しかしそれ以降は落ち着いた緩やかな時間を過ごせた。単に慣れただけかもしれないが。 アジア旅行というと、スリや窃盗やぼったくりにビビりながらというイメージがあったが、今のところ全くそんな気配すらない。当然、それなりの安全対策をしながら、気を配りながら過ごしてはいるが、今のところ無くしたものは、すべて自爆である。今日現在、ガイドブック二冊(一冊は成田、もう一冊はラオス)、ヘッドライト、腕時計、さらに極めつけは昨日、キャッシュカードをATMから抜き忘れて失ってしまった。あ、あとホテルのラゲッジの鍵も無くしちゃった。なにやってんだか。 そうはいっても数日間過ごしただけで、その国の本質が見えるわけではない。闇に閉ざされた部分もあるのだろう。しかし大多数の人々は、まさしく清貧をもって良しとし、美しくしなやかに、しかし力強く、生きることに実直である。時にそれは残酷に、また無秩序にみえるかもしれない。しかし異なる文化を持つ人々を自らの価値基準だけでもってみるべきではない。 ベトナムと言えば、やはりベトナム戦争のイメージは強い。戦争博物館やクチ・トンネルでは、その一端を垣間見た。戦争博物館に展示された数々の写真の中には、枯れ葉剤によって障害を患った人々や、奇形児のホルマリン漬けもあった。目を覆いたくなるような写真や展示物は、世界の趨勢を机上で語る人々によって人生を奪われたか弱い命の現実である。ここで戦争論を語るつもりはないが、今後とも戦争や、暴力をもって問題の解決を図る方法にも手段にも断固反対する。死体の山の上に築かれた平和と繁栄を貪り暮らす私もコトナカレ主義者の一員ではあるが、今ある現実にいくら唾を吐いても、よりよい未来は望めない。自分は今、どうすべきか。真剣 に考えなくては。 明日は早朝、バスにてカンボジアを目指す。在サイゴンのカンボジア領事館でビザも取得してきた(ちなみにその過程でキャッシュカードを無くした)。カンボジア国内の陸路移動は若干のリスクもあるそうだが、明るい内に着くそうなので、まぁ大丈夫でしょう。

サイゴン

ベトナムもついに最後の都市だ。 サイゴンは旧南ベトナムの首都で、34年前、ベトナム戦争終結の際に、首都陥落のニュースが世界に中継され、当時、多くの日本人も目撃した歴史の瞬間が刻まれた町だ。 もちろん私はリアルタイムでみたわけではなく、NHKの特集でみたにすぎない。それでも戦車が門をなぎ倒し、パイロット(たぶん)が屋上に解放戦線の旗を掲げた"あの"首相官邸に自分が今いるのかと思うと、ふるえた。 今日はサイゴンの子供達も課外授業でやってきており、旧首相官邸は大にぎわいであった。ぼんやりしてたら、あっという間に囲まれて、妙に絡まれてしまった。ハロー、ハローって、外人みんながみんな英語を話すと思うなよ。そしてちゃんと誇りある歴史を学ぶのだ。勉強して、はやく日本なんか追い越してくれ。 誰かがハノイの方が今は勢いがあると言っていたが、どうだろう。旅行者にとっては、確かにサイゴンの方が落ち着きがあるように感じる。しかしやっぱり経済の中心都市はサイゴンだろう。物価の上昇はある意味、ベトナムの経済成長を表しているように思える。そうしていつか円との相対価値の差はなくなり、ベトナムの人々がたくさん日本に旅行にくるようになるのだ。今もう中国からはたくさん来てるけど。そしてそのときは是非、田舎を見てほしいな。きっと日本も良い国だと思ってもらえる。

ダナン ホイアン ニャチャン

下痢である。 すでに回復したが、4日間ほど強力な下痢に見舞われ、すっかりダウンしていた。 食欲もまったくわかず、全身に虚脱感がともない、観光していても、楽しくもなんともないので、ホテルで転がっている日々を過ごしていた。 そうはいっても、ベトナムに滞在できる日数は限られている。サイゴンでカンボジアに行くためのビザを所得しなければならないので、その辺から逆算すると、どうしても進まねばならず、フエからダナン、そしてダナンからバスで一時間のところにあるホイアン、またダナンに戻って、鉄道にてニャチャンへと南下して来た。 数日前にチャリダーのおぐちさんが7年間をかけての自転車世界一周旅行に出発したのだが、病気なんかすると、やっぱり自転車じゃなくってよかったなぁ、っと思う。下痢じゃなくっても、風邪でも何でも、体調不良は、自転車の場合、旅の存続そのものに直接、影響してしまう。もし二日とか三日前の状態で、どうしてもその日に100km走らなければならないとしたら?っと思うと、ぞっとする。 しかし7年もの間、病気ひとつしないわけもないだろう。危機的な状況を打開するのは、冷静な判断と機知であるのだろう。及ばずながら、おぐち氏の世界制覇を祈願する。 さて今日はすっかり回復したので、自転車をかりてニャチャン町周辺を観光していた。明日はせっかくのビーチだし、泳ごうかなぁ~。

長い坂の絵の…

蘇州にて 旧正月を迎える蘇州の街は、人混みに溢れていた。高級ブティックの紙袋をたくさん下げた若い女性や、正月飾りを抱えた家族連れ、友人達とひとときを過ごす少年少女。 夕焼けに染まる街の中で、それはまるで蜃気楼のようだった。傍若無人な少年達。ままならない余生を送る老人。裕福さに満ちた家族。浪費に幸福を感じる女性。 人の流れをさかのぼる私の足取りは重く、孤独だった。人々はまるで私自身の過去・現在・未来を示唆しているようだ。それらは波のように押し寄せ、私をさらっていった。 抜け殻になった私は、ただひたすら霞の上を歩くしかなかった。 成都から昆明の列車にて 靴を履いたままおじさんは寝台車の二段ベッドへ這い上がろうとしていた。足をバタバタさせてもがいている下を、鉄道警察官がしかめっ面で通り過ぎようとしている。それをみていた、さっきまで退屈そうに携帯をいじっていた少年が必死に笑いをかみ殺していた。冷徹な印象の現代っ子のふとした笑顔は、まだあどけない子供のそれだった。 乞食 中国では、やたらと物乞いをみた。老若男女いろいろいるが、やはり気になったのは、子供の物乞いや子供(幼児)を抱えて物乞いをする乞食だった。子供が人々の哀れみを誘うダシに使われているのは明らかだ。 ベトナムやラオスにはそれほど多くはみなかったが、レストランで食事をしているときに、たまに寄ってきたりした。子供の物乞いはみない。ベトナムでは体の不自由な物乞いが目立った。のどかなラオスの首都・ビエンチャンでは貧民街をみた。 何も所有することなく日々の食を乞う生き方は、ブッダの言葉をかりれば、ある意味、安息の道へと向かう究極の姿だ。ルアンパバーンでは、朝、托鉢をする僧侶から、さらに恵んで貰っていたおじさんがいた。彼こそ本物の修行僧かもしれない。

フエ

パクセ〜ベトナム・フエへ向かう道は、それほど険しいわけでもなかったが、また酔ってしまった。バスはやっぱり苦手だ。 パクセのバスステーションでは、当初、砂糖の袋が山積みになったバスに乗せられ、どうなることかと思ったが、係員の勘違いで、私のバスは後ろに止まっていた、エアコン付きのVIPバスだった。 乗客の外国人は私とノルウェーからきた女の子だけで、しかも二人とも初海外一人旅、彼女にとっては頼りにしたいであろう坊主のおっさんは、今一つ英語が通じないとあって、かなり不安そうであった。そしてその不安は見事的中するのである。 国境には早朝到着し、イミグレーションが7:00から開くのをバスの中で待っていると、おっさんが一人やってきて、出境には4ドルが必要だと言って、パスポートと4ドルを要求してきた。 ノルウェー女子は、どうやら目的地のダナンの銀行でお金をおろそうと思っていたらしく、現金の持ち合わせがないようで困り果て、私に借して欲しいと言ってきた。 最初私は賄賂だろうと思って、3ドルしかないと言って私の分をまけてもらい、ついでに彼女が持っている2ドル相当のベトナム通貨と合わせて、二人で5ドルで何とかならないかなぁっと思い、彼女の頑張りに期待していた。その時点では彼女も初一人旅だと知らなかったのだ。しかしどうやら困り果てる一方で、ディスカウントは無理そうなので、おっさんがバスの外に出たところで、彼女に10ドル紙幣を渡した。 彼女は私と一緒にダナンの手前のフエで降りて返すと言っていたのだが、1ドル返してもらうのに、それは申し訳ないし、しばらく貸し渋ってしまったような感じになってしまい、ずいぶん不安な思いをさせてしまったようで、それも申し訳なかったので、お断りした。 フエに到着すると、バスの外では一人のバイクタクシーのドライバーが大騒ぎしていた。あぁ、ベトナムに帰ってきたのだなぁ。いちいち断ったり、値段交渉したり、まためんどくさいなぁ。とは言え、バス酔いと寝不足で疲れた体が歩くことを拒否していたので、とりあえず値段だけを聞いて、後ろにまたがった。 ドライバーは私が日本人だと言うことを知ると、真っ直ぐ日本人旅行者御用達のホテルに連れて行った。受付のスタッフは日本語を話し、ロビーには旅慣れた風の若者がゴロゴロ居る。私には場違いかな?気にしすぎかな。まぁ部屋をみて、値段も悪くないので、そこで

ワット・プー デッド島

パクセから乗り合いのトラック改造バス(ソンテウ)に乗り、最寄のチャムパサックという村まで行き、そこの適当なゲストハウスに宿を取って、その日に自転車を借りてワット・プーへと向かった。 チャムパサックからワット・プーまでの道は自転車で40分ほどだったが、日々の怠惰な生活がたたり、めっきり鈍った体には少々重荷であった。道すがら子供たちや村人たちに「サバイディー」っと声をかけてもらえるのだが、笑顔を返すのが精一杯。こちらからご挨拶せねばなるまいになぁっと思いながらも、鈍った心と体は下を向いてしまう。 ワット・プーは、よく言えば素朴な、悪く言えば見応えのない朽ちた遺跡であった。木材で補修された姿は痛々しく、世界遺産と呼ぶには寂しい気がした。しかし遺跡に残された幾つかの彫刻は、時代の流れと栄華を思わせ、興味深かった。 翌日はチャムパサックを離れ、シーパンドン(4000island)へ。メコンはラオスの南で川幅を大きく広げ、たくさんの島と瀑布が点在する大河へと姿を変える。幾つかある島々の、私はデッド島というところに滞在している。静かなのんびりしたところを想像していたが、残念ながらお隣さんの音楽は朝方まで止まず、少々寝不足だ。まぁ楽しみ方は、人それぞれだ。人の少ない静かな場所を望むなら、それに値するだけの支出をすれば手に入れることもできる。 自転車で橋でつながれたコン島にいってみたが、こちらのほうが人が少なそうなので、明日は移動しようか悩んでいる。 ここにきて、ヘッドライトを宿に、ガイドブックを寺に置き忘れ紛失し、腕時計はメコン川で泳いだ際に壊れ、ついでに財布をポケットに入れたまま水泳してしまった。 だめだこりゃ。

フェイサイ ちょっとだけタイ メコン川下り パクセ

ルアンパバーンからフェイサイへのバスは、道も悪く山岳地帯が続いたため、さすがにだいぶ酔ってしまった。また夜間はかなり冷え込み、私は運良くバックパックを車内に持ち込めたため、防寒着を着こんで難を逃れたが、となりのカップルはTシャツ短パンだけでかなり寒そうだった。 深夜発のバスは15時間をかけて翌朝フェイサイへ着いたが、空腹とバス酔いで胃袋を握り締め付けられているような気分であったため、適当なゲストハウスに滑り込み、数時間ベットに横たわっていた。 しばらくしてからタイへ出国するため船着場へと向かい、渡し舟にてメコン川をはさんで対岸に位置するタイのチェンコンにわたり、30分ほど滞在した後、フェイサイに戻ってイミグレーションにて再びラオスへの入国検査を受けた。これでまた15日間、ラオスに滞在できる。 ゲストハウスで翌日のスローボートのチケットの手配をすませ、その日は早々に寝た。 フェイサイからルアンパバーンへ下るスローボートは、途中、パクベンと言う町での一泊をはさんで、二日間をかけての移動となる。昔は主要な交通機関であったボートは、現在、道路の建設が進み、雨季を除いては、物好きな旅人のための観光手段の一つでしかない。その日も乗客のほとんどは、海外からの旅行者だった。 ゆるやかなメコンの流れをすべるように進むボートからの景色は、長閑でもあり、また自然の強大な力による痕跡に息を呑むような瞬間もあり、裸で泳ぐ子供たちあり、時には川沿いの村から村へと物資と人が行き来するあわただしさあり、流れる死んだ牛あり、なかなか飽きるとこの無いものであった。 しかしながら二日目ともなると、さすがに流れる景色にも飽きてしまったが、隣に女優かと見紛うほどのスイス人美術女教師と同席になり、しばらくは彼女の美しさに見とれて退屈をしのげた。あんな美人とお話できるなんて、海外旅行もしてみるもんだ。 ルアンパバーンへは二日目の夕方に着き、その日は数日前とは別のゲストハウスに宿泊し、翌日空路にてビエンチャンへ向かった。ルアンパバーン空港は、国際便があるとは思えないほどの小さな空港で、ビエンチャン行きの飛行機はB29のようなプロペラ機だった。出発予定時刻から5分ほど遅れて搭乗すると、席に座ってすぐにエンジンが始動し、10分ほどで離陸した。 翌日、ビエンチャンからさらに飛行機を乗り継いでパクセへと向かうつもりだった