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Nylon Cold Drink

 ナイロン・コールド・ドリンクはマンダレーの83番通りに面したアイスクリームのお店だ。変わった名前だが、アイスクリームの他にもシェイクやデザートなどもおいしいと評判で、毎日、客足の絶えないカフェである。  ミャンマーにおいても奢侈品であるアイスクリームの専門店の前には、新聞売りやバイクタクシーに混ざって、二人の乞食が慈悲をもとめていた。一人は両足が太股以下より無い(か、そのようにみえる)40代の太った女性で、もう一人は5歳ぐらいの男児であった。  男児は私が席に着いてから、すぐに私に目を付けたか、外を見やる度に目が合い、その都度、左手を差し出した。二三度、そのようなことを繰り返すものだから、ついには私は外を見るのを止めてしまった。  しばらくしてから、女の物乞いが何かを叱責するような声を聞いたので、ふと外を見ると、男児より少しは年長であろう、やはり物乞いの女児が、店の前の歩道を歩いていた。乞食は店の前の歩道より近くには入らないという約束事があるのだろう、女の声はそれを注意するものだった。すぐさま店員が駆けつけ、拳で女児の腕を突き、車道へと押し出した。女児は恨めしそうな顔で店員をにらめつけながらも、特に何も言わず立ち去った。  店にいた他の客も、周りの誰もが無関心のように見えた。だから私も無関心を装い、アイスクリームに気持ちを戻した。相も変わらず、胸の奥にいるモヤモヤした暗い淀みが、私を覆い尽くしそうになるのを、冷たく、とろけるように甘いアイスクリームの味が押しとどめた。  際限なく繰り返す飽食の末に得た無関心の味。

観光と生活

少数民族の村へのトレッキング・ツアーに参加しようか、迷っている。人間を見せ物にすることにも、見せ物になることにも、やはり抵抗があるからだ。 民族衣装を着て被写体となり、現金収入を得ている人々を哀れんだり、蔑むつもりは毛頭ない。観光"産業"は、すでにどの国でもどの地域でも重要な収入源であり、それに従事する人間もまた、地域の重要な構成員だからだ。なにより、一つの命がそれを維持するための手段の貴賤の判別を私は知らない。 すでに衰退の一途をたどっているとは言え、観光地に生まれた人間として、どこへ行っても、旅行者としての視点と同様に、迎える側の視点で、その土地を見てしまう。 旅行者にとってはその土地土地の生活感を肌で感じることは、旅の醍醐味であるといえる。町を行けば、人々で賑わう市場や、寺院へ参拝する敬虔な信徒、また斜陽に染まる建物すべてが新鮮で物珍しく写る。ツアーに参加すれば、村の素朴な暮らしは、郷愁と深い感銘を与えてくれるだろう。そしてそこに暮らす人々との、何気ないやりとりやコミュニケーションが、一番の思い出として旅行者の記憶に刻まれるはずだ。私もその土地の暮らしを体感することや、地元の人との交流がこれからの観光地のキーポイントであると考えている。 しかし一方で旅行者にとっての非日常は、そこに暮らす人々の日常でもあるのだ。私のような何も知らない外国人が、土足で入り込んで良いものなのだろうか?私がカメラを向けることで、彼らを傷つけやしないか。すでに見聞きしているだろう我々の暮らしぶりと自分たちのを比べて、恥じてしまったりはしないだろうか。 ある程度、年齢を重ねていれば、民族としての誇りや、観光資源としての価値を見いだせるかもしれない。しかし誰にとっても都会の豊かで、贅沢な暮らしは魅惑的に見える。もし労働力が流出し、過疎化に伴って地域の産業は廃れ、観光にのみ頼らざるを得ない状況に陥れば、その地域の経済はいずれ、行き詰まることになるだろう。私の故郷や、日本の崩壊しつつある地域社会のように。 もっとも日本の場合が必ずしも当てはまる訳じゃないし、日本の地域社会の経済の悪化が、過疎化だけに因るものではないのだが、似たような事態がアジアの地方で起こりうる可能性は容易に想像できる。 変化を拒否するのではない。過ぎ去りし封建社会を美化し、昔は良かったなどと...

長い坂の絵の…

蘇州にて 旧正月を迎える蘇州の街は、人混みに溢れていた。高級ブティックの紙袋をたくさん下げた若い女性や、正月飾りを抱えた家族連れ、友人達とひとときを過ごす少年少女。 夕焼けに染まる街の中で、それはまるで蜃気楼のようだった。傍若無人な少年達。ままならない余生を送る老人。裕福さに満ちた家族。浪費に幸福を感じる女性。 人の流れをさかのぼる私の足取りは重く、孤独だった。人々はまるで私自身の過去・現在・未来を示唆しているようだ。それらは波のように押し寄せ、私をさらっていった。 抜け殻になった私は、ただひたすら霞の上を歩くしかなかった。 成都から昆明の列車にて 靴を履いたままおじさんは寝台車の二段ベッドへ這い上がろうとしていた。足をバタバタさせてもがいている下を、鉄道警察官がしかめっ面で通り過ぎようとしている。それをみていた、さっきまで退屈そうに携帯をいじっていた少年が必死に笑いをかみ殺していた。冷徹な印象の現代っ子のふとした笑顔は、まだあどけない子供のそれだった。 乞食 中国では、やたらと物乞いをみた。老若男女いろいろいるが、やはり気になったのは、子供の物乞いや子供(幼児)を抱えて物乞いをする乞食だった。子供が人々の哀れみを誘うダシに使われているのは明らかだ。 ベトナムやラオスにはそれほど多くはみなかったが、レストランで食事をしているときに、たまに寄ってきたりした。子供の物乞いはみない。ベトナムでは体の不自由な物乞いが目立った。のどかなラオスの首都・ビエンチャンでは貧民街をみた。 何も所有することなく日々の食を乞う生き方は、ブッダの言葉をかりれば、ある意味、安息の道へと向かう究極の姿だ。ルアンパバーンでは、朝、托鉢をする僧侶から、さらに恵んで貰っていたおじさんがいた。彼こそ本物の修行僧かもしれない。

母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらに優れたことを、正しく向けられた心がしてくれる。 ダンマパダ